【氷河期世代の逆襲 不動産投資でFIRE】 ということで、氷河期世代である貸主物件.comの管理人が、普通の人生から、その後、落ちこぼれ底辺学生となり且つ就職氷河期時代に不遇を味わいつつも、賃貸不動産経営でFIREするまでの道のりを書いていこうと思います。一部、個人情報が出すぎるところは多少表現を変えております。ご理解ください。
今回は、管理人の生い立ち~中学生頃までのお話です。
【生まれてから保育園】
1970年代に、普通のサラリーマン家庭の子供として生まれました。
両親が自営業だったとか、企業家だったとかではなく、ごくごく普通のサラリーマン家庭でした。会社勤めするのが当たり前というかそれ以外によくわかってませんでした。
特別に裕福でもなく貧困でもない生活。それなりの物は揃っていたし、逆に大きな贅沢もあまり記憶にありません。この頃の影響か、いまも特別に裕福になりたいとか思いません。
普通に保育園に行って、友達と遊んで、運動をして。何も細かく考えてない子供でした。
ただただ、遊んでたら毎日楽しく過ぎていく。ひたすらに毎日が楽しく過ぎていく。
保育園の時の記憶はほとんどありませんが、いくつか挙げるとすれば
①使用済みのびしょびしょの水着を2階から絞って1階を歩く園児の頭の上に水をかけて遊んだ
②自転車の2人乗りで荷台に乗っているときに、後輪に足のかかとが入って何度もケガした
③親と原付に2人乗りして、警察に止められた
記憶があるのはこの程度でしょうか。全部6歳位だと思いますが、それより前に記憶が遡れません。
【小学校入学】
野球を始めて、阪神タイガースの1985年の優勝を目の当たりにし、『高卒ルーキーで阪神のドラフトに受かるぞ!背番号は真弓の7』と、よくいる夢見心地の野球少年でした。
小学校1年生の夢は大きいものですが、4年生位になるといろいろと現実に気づきますよね。エースでもなければ4番でもないのにプロ野球選手になれるわけがない。この頃から、監督に求められているサイン通りのプレーを必ずする、守備でエラーをしない、見逃し三振はしないなど、自分ができる目の前のことをやるようになりました。
結果的に、6年生の時に、地域の学区選抜に選ばれ、2番セカンドでスターティングメンバーに選ばれました。私以外はほぼ全員、体格が大きい同級生ばかりでした。大人になった今、みんな180センチ以上はある体格だと思います。私の小学校時代の一番の思い出は、この選抜チームに選ばれスタメンでプレーしたこと、このチームでひたすらに黒子役に徹し、送りバント・守備を失敗しなかったことです。
時代背景としては、バブルとやらの真っ只中だった様で、世の中は比較的景気が良い状況だったらしい。(景気が良い状態をいまだに知らない・感じたことがない)
普通に仕事しているはずの父親と一緒に過ごす時間がやたらと多く、当時は何も思いませんでしたが、今となればバブルだからサボっても仕事が成り立っていたのか!みたいな感じです。
世の中的には、1988年から1989年に掛けての宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で、日本中が怯えていた時期でした。正直、今考えたらあんな事件の真っただ中でも普通に登下校させていたのっておかしくないですか?私なら子供の送り迎えしますよ。
小学校高学年の頃には、『はいすくーる落書』と『ぼくらの七日間戦争』の影響で順調に反抗期を迎え、大人達に何か言いたい子供に仕上がりましたが、とりあえずは、大きな問題もなく過ごしていたと思います。
この頃好きだった曲は、『THE BLUE HEARTS』の『リンダリンダ』『TRAIN-TRAIN』『情熱の薔薇』
【中学校入学】
性格的なちゃらさに加え、反抗期や周りの影響もあったのか、少しやんちゃな側面が出てきました。好きな漫画は『ろくでなしBLUES』と『スラムダンク』。
ヤンキー漫画時代ですが、男子は『今日から俺は』の様な長ラン・短ランからセミタンへ、ボンタンからバギーパンツ・スリムパンツへ。女子はロングスカートからミニスカ・ルーズソックスへと時代が大きく変わる時でした。リーゼントやソリコミ等がださい風潮になっていき、ツーブロックが一番人気でツーブロック禁止の校則ができたころだと思います。
アメカジや古着、スケートボード等のストリートファッションやヒップホップ・パンクロックなど音楽的ファッション要素等、色々なジャンルの個性が多方面に向かい始めました。ポケットベル・PHSなども中学生で持つ子が出始めたころです。
世の中的には、1992年バルセロナ五輪でのバスケ男子のマイケル・ジョーダン&マジック・ジョンソンを中心としたアメリカドリームチーム誕生、1993年Jリーグ開幕やアメリカW杯アジア最終予選のいわゆる『ドーハの悲劇』、1994年アメリカW杯で特に決勝のブラジルVSイタリア戦のロベルト・バッジョのPK失敗、1994年6月27日に長野県松本市で発生した松本サリン事件(警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件)、1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震により発生した阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)が大きな記憶に残ります。
時代の歴史的な大きな変化があったと同時に、凶悪犯罪や大規模災害が起きた時代でした。
あれもしたい、これもしたい、自分の好きなこと興味のあること楽しいと思えること、たくさん生まれてきた年頃だったと思いますし、思い付いたら何も考えずにやってました。本当にごめんなさい。
その他にも、勉強や学校生活、友人関係、健康等、実際、大きな苦労もせずに過ごせましたし、特別な努力をしなくても、だいたいのことが何故かうまく進みました。困ったということが起きた記憶がありません。
勘違いな思考回路のせいで『阪神タイガースは無理やろうけど、普通の夢?目標?なら、なんか、、わりと何やってもうまくいく気がするんだよなぁ』と、何の根拠もないのに、こんな風に初めて思ったのがこの頃だったと思います。
高校受験も、都道府県内トップの進学校になんとか無事合格。努力はしたけれど、それなりの努力でしかなかっと思います。
卒業式では、制服のボタンを後輩の女子複数人が欲しいということで、ボタンがすべて無くなり、制服の上着をボタン無しで全開きで下校したのがいまだに自慢です。笑 P君、その時一緒に帰ったの覚えてるかな?笑
『なんか、、わりと何やってもうまくいく気がするんだよなぁ』
中学の卒業式から帰り、そんなことを再度感じた『15の夜』でした。